第2亜細亜丸の事 - つよし
2024/12/20 (Fri) 03:02:43
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/summary/wnp/s/196911.html.ja
3月26日の枕崎、水産ガッコ無線科の同級生達何人かが臨時の同窓会を開いてくれるそうです。横浜に居た40年ほど前に家まで訪ね来てくれた数人とは会った事ありますが、大半は卒業以来50数年ぶりの再会となります。
国家試験だけは取れたものの落ちこぼれの典型だった自分には恥ずかしい初再会ですが、生きている内にお礼を述べたい仲間が数人。当時、世界有数のタンカー保有会社・三光汽船に通信士として就職した同級生たちです。
2航海目となった19の時、1969.9.21日頃、インド洋から帰路の台湾-沖縄間の沖で猛烈な台風“Elsy11”に巻き込まれて遭難寸前となった事がありました。
乗組員57名、1200トンの第21東丸鮪船でした。
昼頃から荒れ始めた海は夕方には、3航士がデッキで計っていた30mが限度の風力風速計は針が振り切れて使い物にならなくなってしまいました。それからは猛烈な波浪との闘いが何時間続いた事でしょう?!
舳先から船尾まで70mの船体を飛び越える様な大波は時々ブリッジを直撃し、窓はガラス全部が割られて枠だけになってしまいました。艫の食堂も操舵室も水浸し。通信室も10㎝深さ位に浸水、水の掻き出しに必死でした。
漁労長が物凄い形相で次々と寄せ来る大波に直角に舳先を当てて船を支えようと、仁王立ちしながら舵を握ってしておりました。気圧計は890mb、900以下を超えていた記憶です。
夜中0時過ぎでした。船長が『SOSを発信して!』と。
その直前にはエンジンがまさかの停止。程無くに回復しましたが、もし、あのままだったら船は直ぐに横転・転覆だったでしょう!
発信して直ぐに2つの船から返信を頂き、最短の海域にいた三光汽船の第2亜細亜丸が救援に来てれる事になりました。
明け方4時頃、救援に駆けつけてくれた第2亜細亜丸。
4万㌧のタンカーは長い船体に赤い船腹・船底を荒れ狂う波間にむき出しにしながら接近、少しでも風波を和らげてやるべく500m位離れた風上に回り、待機してくれました。
朝もやに煙ったGreenの船体の、何と尊く嬉しく有難い姿でしょう!
3~4時間は、見守り続けて貰ったでしょうか?
そうこうしている内に波も幾分穏やかになった明け方、第2亜細亜丸にお礼の連絡をすると、『それでは本船これから目的地ペルシャ湾に向かいます』と返信くれて、ブオーッ!ブオーッ‼と長い長い汽笛を数回鳴らしながら、静かに遠ざかって行きました。
あんなに腹の底から響く力強い逞しい汽笛を聞いた事は初めてした。
SOSに連なる無償の尊い行為を19の秋にしっかりと体感しました。生涯忘れ得ない経験でした。第2亜細亜丸への感謝は死んでも忘れません!
十数年以上前に神津島で畑下さんのヨット『Miya』が遭難しかけた時、仕事帰りそのままで竹下桟橋から島へ渡った無謀さを焚きつけてくれたのは、第2亜細亜丸との出会いがあったからこそだったかと思っています。
記憶も薄れてElsy11の米軍記録台風情報と日時・時間ごとの気圧・進路も合致しませんんがあの状況から生還出来たって事、やっぱり感謝しかありません。